Columns

* 備忘録的なページです

● 時事論評: さぼってきた環境対策 台風11号の騒動の意味するもの (2014-08-11)

中部大学・武田邦彦教授のブログより転載
情報元: http://takedanet.com/2014/08/post_40ee.html

台風11号が四国に近づいた時、中心気圧は965ヘクトパスカル、最大風速は35メートルだった。ごく普通の台風で、少し速度が遅いぐらいで、そのぐらいの個性は台風によっていつも起こる。それでも日本中が大騒ぎして、まる2日、日本国中で「命を守るため」かなりの活動が抑えられた。

簡単に言うと、「そんなに台風を怖がっているのなら、日本人は止めたら」と言いたいぐらいだ。台風接近や上陸は日本の夏から秋にかけての年中行事で、接近数は平均11回ぐらい、多い年は20に迫る。ただ、温暖化が進んでいなかった1960年代は大型で接近する台風が多かったが、最近は少なくなった。

でも、年間10回程度、起こるたびに「異常事態、命を守る行動」などと言ってもらうと、「それじゃ、日本に住まなかったら」という感じだ。なぜこうなったのか、その原因は次のようなものである。

1) 気象の変化を温暖化のせいにしてCO2などを減らした、
2) 雨や風を「記録的」とウソを言って対策の遅れをごまかした、
3) 治水や災害対策は政府・自治体の最も大切な仕事なのに縦割りでバラバラ行政、
4) 増税しては利権の取れるところにばらまいている、
5) 環境運動家が自然を知らない、
6) マスコミが政策の遅れを報じないで、「記録的」と叫ぶ。

その結果、三重県に特別警戒警報が出て、四日市市で50万人に避難指示がでて避難した人は180人、鈴鹿市で20万人に避難指示で,避難した人が60人ということになった。気象庁が高知県に出し忘れたので、その代わりに三重県に出したとも言われている。

しかし、人の命に関係することだ。このブログでは「異常気象」について最近、まとめたが、このままにしておくと自然災害はさらに増えて、メディアが「異常、異常」と騒ぎ、また見当はずれの対策に税金が使われることになる。国民が逃げ惑う姿を見て、誰一人として為政者が心の底から「可哀想だ」と思わずに、責任逃れの対策だけをしているからだ。


まず、川の氾濫から始めたい。
川は上流から流れてくる。上流からの水量を決めているのは、森林の状態、上流の水田、中流の田畑や住居回り、川底の堆積物などである。日本の国土は森林が67%を占めているので、森林が「生きた状態」にあることは保水力からいってとても大切である。しかし、「リサイクル屋さん」という環境運動家が出現し、農水省のさぼりと環境省の利権が手伝って、今や日本の森林は荒廃している。だから山に降った雨は保水能力のない山から直ちに河川に流れ込む(原因1)。

さらに日本は上流地域から水田が発達していたので、水田の保水能力というのは小規模のダムほどのものだった。大雨が降ると、その半分は水田の水が満杯になるということで吸収した。それが減反などで減ってしまい、雨水は直ちに河川に流れ込む(原因2)。

そして中流では都市が発達し、舗装し、下水が作られ、かつて土の中にしみこんで時間調整をしていたのが、そのまま河川に流れ込むことになった(原因3)。

そして最後の打撃が川の「浚渫」をしないことだ。
私はよく「濃尾平野は木曽川が作った」という。それは「川は上流の土砂を運んで氾濫し、それによって大地を作り、低地を高くしていった。ところが護岸工事が進み、堤防が築かれたのはよいけれど、浚渫をしないので、川底があがり、流れる水の量が減った。地面より川底が上がったことによって流れる水の量が減ったばかりか下水からポンプで川にくみ上げないと排水できなくなり、さらにマンホールからの吹き出しの原因になっている(原因4)。

すべて「人為的原因」で氾濫が増えているのに、温暖化、記録的豪雨という気象のせいにして責任逃れをしている。元凶は、治水政策の遅れ、個別の政策が縦割り行政になっていること、それに環境運動家を中心とした国民の利権追求である。

たとえば、減反で水田を減らすのは農水省だが、それによって上流の保水能力が減るからその対策をしなければならないが、それは国土交通省だ。でも日本の役所の縦割りは、他の役所のやることは知らないということだから、対策を打たない。水田は水田、氾濫は氾濫ということになるので、その結果、国民が逃げ惑うことになる。

またテレビや新聞を見ていると「異常気象」とか「温暖化」という科学的に間違ったことを言っているけれど、これは遊びではなく、現実に被害者、死者のでるものなので、専門家はいきさつや利権に左右されず、正確な表現をしなければならない。

(平成26年8月11日)
武田邦彦


● 指導者の資格 一貫性と誠実さ・・・私たちが働いた成果は誰に? (2014-02-12)

中部大学・武田邦彦教授のブログより転載
情報元: http://takedanet.com/2014/02/post_5557.html

1956年から1990年までの34年間、日本は高度成長をした。途中の1973年に石油ショックがあったので、その前は年率9%で、その後は年率4.5%程度で成長したから、前期高度成長期と後期高度成長期に分けても良いだろう。

いずれにしてもこの間で日本のGDPは8.8倍になった。GDPがそのまま個人の所得になるわけではないが、インフラストラクチャーなども入れれば、総合的に個人の豊かさが8.8倍になったとできるし、5万年の月給が44万円になったと言っても良い。

国の経済に関心のある経済学者は、「日本はヨーロッパ並みに所得に国になった」と言うだろうが、私は全く違うと思う。国民から見て、この高度成長と言うのはどういう意味を持っていたのだろうか? 国民はなぜ一所懸命になって働いたのか?

「日本は貧困な生活から、ヨーロッパ並みの豊かな人生を過ごそう」と政府は呼びかけ、NHKはアメリカの家庭のドラマを放映した。そこには、自動車、冷蔵庫、デート、家族旅行などが満載されていて、私たちはそれを夢見たものである。

日本国民は素直に政府の言うことを聴き、一所懸命になって働いた。朝は6時に起きて7時に満員電車に乗り、駅員が押し込んで会社に行った。夜は10時まで働き、11時に妻が夕食とお風呂を準備してくれていた。一家総出でお父さんの仕事を守り、そして日本は高度成長をした。


ところが、前期高度成長が終わったころ、日本人の所得が「消費」を上回り、そのお金は、一部が赤字国債に、一部が年金に回った。さらに後期高度成長が終わったら、さらに赤字国債と年金拠出でお金は政府に吸い取られていった。

1990年代に吹き荒れた「環境問題」と「少子化問題」の正体は、高度成長した日本人の所得をいかにして吸い上げるかの政府の作戦だった。すでに1990年には日本の環境破壊は終わっていて、環境が原因で病気になる人はほぼゼロになっていた。でも、「ゴミがあふれる」、「ダイオキシン」、「地球温暖化」と次々と環境問題をでっち上げて、お金を吸い上げるのに政府は懸命になった。

年金では社会保険庁が故意に不祥事を起こし、積み立てていた年金がなくなっているのを隠ぺいし、マスコミはそれを手伝って「年金の大幅な流用問題」を「少子化問題」にすり替えた(少し説明がいるが、急ぐ人はシアターテレビジョンの「現代のコペルニクス」2月のニコニコ動画を見てほしい)。

・・・・・・・・・

「まともな政府」というのはいったい何をするためにあるのだろうか? 

現在の日本政府も、首相は「GDPの動きを見て増税を決める」と言い、決して「給与の動きを見て・・・」とは言わないし、日銀総裁は「物価を2%上げるのが目標」と言い、決して「給料を2%上げるのが目標」とは言わない。

つまり、日本政府というのは国民の利害も代表していないし、国民の仕事の辛さも知らない。GDPも物価もどちらかというと政府の指標だが、政府のもともとの存在意義は「給料があがるか」(国民が豊かになるか)であって、GDPそのものではない。GDPが高くなっても、その分はすべて政治家、官僚、大企業に行ってしまって、国民には届かないというのが20年も続いている。

だから、今回の増税も、インフレターゲットも、アベノミクスも、これまでの20年のように、国民に危機意識を作り出し、働かせ、銀行預金を吸い上げ、増税して一部の人だけが儲かるという仕組みの可能性が高いのだ。

私たちの世代は「働き蜂」、「ウサギ小屋」とマスコミに揶揄されながら、ひたすら「子供には豊かな生活(水洗トイレ、内風呂、瞬間湯沸かし器、自家用車など)」をさせたいと一心に働いた。でも、その結果が、増税、非正規雇用者、休暇のない生活、解雇の危険だったということは、政策に一貫性がないことを如実に示している。

(日本人の努力の結果;  休暇:フランス32日 (1年)、日本8日。 旅行:フランス1年20泊、日本1年1泊2日)

私がこのブログで誠意のない日本は衰退すると考えたり、NHKや東大を無くさないと日本は良くならないというのは、日本が繁栄してきたのは、世界にもまれに指導層が道徳を大切にしたからで、明治天皇がご誓文で示されたように、私利私欲、利権、メンツなどにこだわらず、「万機公論に決すべし」を旨としたからに他ならない。

日本の社会が歪んでいるもっとも大きな原因は、首相や大臣、東大教授、NHKなど日本を指導する立場にある人たちが、「自分の利益」、「省益」などを優先して、本来の役割である「国民の努力に対して国民が幸福になることで、自分も嬉しくなる」という気持ちになることだ。

(平成26年2月12日)
武田邦彦


● まともな日本へ 日本だけが特殊なことをしない・考えない (2014-01-04)

中部大学・武田邦彦教授のブログより転載
情報元: http://takedanet.com/2014/01/post_9fdb.html

先の大戦(第二次世界大戦、大東亜戦争)でも日本は国際的に孤立した。このブログの「普通の歴史」にも詳細に書いたように当時の日本が国際的に孤立したのは満州国の建国がその理由になっているけれど、世界のほとんどの国が植民地を持っていた当時、満州国が日本の傀儡政権であったとしても、それは世界で特別なことではなく、むしろ良心的な植民地経営と言えるものだった。

それでも日本は孤立した。その一つの原因が、日本人が有色人種であったことや、中国がアジア民族なのに白人側についたというような事情はあるけれど、大きな理由はやはり「日本は自分の価値観を表面に出しすぎて、世界全体の動きを理解できず、それを無視した」ということによる。

満州国の調査に入ったリットン調査団の構成に異論を唱えるなら「ヨーロッパ流交渉術」だが、全部決まってから国際連盟で素晴らしい演説をして、その直後に国際連盟を脱退するというのはいかにも日本的過ぎて世界の理解は得られない。それが結局、310万人の犠牲という大東亜戦争を呼んだ。

このような日本人の「国際感覚の不足」は今でも続いている。戦後の高度成長ではあまりに急激に日本からの輸出が増え、アメリカの自動車産業など世界の産業から「日本株式会社」と批判されたが、日本人がそのことをよく考える余裕はなかった。

このような国際感覚の不足は現在でも続いていて、その中心は「環境問題」と「経済問題」に集中している。環境問題では「温暖化防止でCO2の削減をしているのは日本だけ」、「リサイクルをしているのもほぼ日本だけ」、「節電は日本だけ」などがあり、経済問題では「貿易立国なのに第三次産業の自由化に反対している」、「エネルギー節約」などがある。


日本が国際的に奇妙な行動をとるのはなぜだろうか? その理由を「温暖化騒動」で整理してみたいと思う。

今から40年ほど前まで、世界の気象学者、地球物理学者などの学者は「寒冷化」を心配していた。理由は、太陽活動による500年周期の寒暖の変化がそろそろ寒冷化に向かうこと、1940年から70年までの30年間、世界の平均気温(都市部)が低下傾向にあること、寒冷化すると食料生産などが大幅に低下することが予想されること、などであった。

私の知り合いの学者は「寒冷化するから、寒冷に強いイネを開発しなければ!」と叫び、研究費を獲得していた。

ところが都市部の気温は1980年代から上昇に転じ、若手の学者の間でしばらく温暖化が進むのではないかと考える一派が登場した。このグループはかなり政治的だったので、1988年アメリカ上院の公聴会で「CO2による温暖化」という新しい学説をだし、それに政治が加担して今日の温暖化騒動になった。

しかし、学問的には「温暖化しているかどうか」は定かではない。確かに世界の都市の平均気温は1880年から2000年まで継続して上昇しているが、良く知られているように都市の気温はヒートアイランド現象で地方の気温とかなり違うこと、1880年からの測定値はほとんどが先進国でエネルギーの消費量が高いことなどである。

これに対して1978年に打ち上げられた気象衛星による上空気温の観測では気温はまったく上昇していない。また、1997年からの最近の15年間は、都市の気温も含めて上昇していないし、2013年には南極の氷の面積は最大になった。

地表の気温、特に都市部の気温に影響を与えるのは、地球の気温自体、都市のヒートアイランド現象、気温を観測する百葉箱の設置場所などいろいろな影響がある。また太陽活動、宇宙線の強さ(太陽からの太陽風の影響を受け、強いほど雲ができやすい)、地軸の傾きなどがあり、長期的、短期的にその変化を予想するのはむつかしい。

CO2は地球を温暖化するが、地球が誕生した時にはCO2の大気中の濃度は95%もあり、現在の0.04%というのは地球の歴史から言えばもっとも低いレベルであり、それが10倍程度になっても破壊的な影響があるとは歴史的事実から見れば考えにくい。

したがって、日本を除く世界各国は温暖化問題を政治的に利用するのにとどまり、環境問題としては取り組んでいない。もちろん、各国には道徳的、社会運動的に自然の変化を極端に嫌う人たちがいて、温暖化阻止の運動としては存在するが、それは一部のとどまり、具体的にCO2を削減するという政策までには至っていない。

これに対して日本ではCO2を減少することが、政策ばかりか、道徳的にも正しいというところまで進み、小学校でも「温暖化防止」の教育が行われるという、世界でも日本だけが異常な状態である。

しかも「政策の一部に温暖化対策を含める」という程度ではなく、「すべての政策、節電など、日本人の行動を制限するところまで及ぶ」という極端なことが行われている。


世界の動きと全く異なり、国内では個人生活に影響を与えるようなことを「あやふやな科学的根拠」で行うためには、国民が大きく錯覚しなければならず、そのためにNHKを中心としたマスコミが大いにその力を発揮した。また教育界も協力し小学生にも「温暖化防止のために私たちも何ができるの?」というダンスを踊らせたりした。

2009年には温暖化を強調するIPCCのデータのねつ造、2013年には15年間も世界の気温が上がっていなかったのを隠していたという報道などが続いたが、2013年暮れ、NHKは「ますます加速する温暖化」という報道をした。テレビ報道は言ってしまえば時の流れで流れてしまうので、何を言ってもよいという無責任な経験があるから、データは問われないと思っている。

世界全体が知っている事実を強力なマスコミの力と、上からの指令に弱い教育界や、広告代理店の力によって世界とは隔絶した認識になる日本。このことは戦後、いち早く丸山眞夫氏は「日本では常識であることが、日本を一歩出ると非常識のことが多い」と述懐している。


「グローバリゼーション」と言われて久しいが、日本人が国際的な感覚(たとえば、温暖化というのは環境問題ではなく、政治問題として見るなど)を身に着けるのはいつのことだろうか? そのためにはマスコミや専門家が正しい発信をすること、自分の利権より日本の発展を願う政治家を増やすことがもっとも大切だろう。

(平成26年1月4日)
武田邦彦


●「電気」となると値段より作り方が気になる日本人 (2014-02-11)

中部大学・武田邦彦教授のブログより転載
情報元: http://takedanet.com/2014/02/post_100e.html

日本人はやや何かに取りつかれる特徴があり、前の戦争の時でも「大丈夫かな」と心の底では思っていても、みんなが「戦争、戦争!」と言っているとそれに逆らうのもどうかという気持ちになり、そのうち、自分自身も取り込まれるというところがある。

日本人はトイレットペーパーを買うときに、それが日本の木を使ったか、外国の木を原料にしたかを気にする人はいない。「環境」ということを考えれば、とても重要なことだが、だれも関心がない。

自動車を買いに行く日本人は、その自動車の板金がどのような方法で作られたのか質問する人は少ないし、鉄鉱石をどこから輸入したのかも聞かない。値段と性能やスタイルを見て買う自動車を決める。

つまり、消費者というものは「安くて、品質が良い」のが第一で、「製法」や「原料」には興味がなく、また考える必要もない。それは専門職のやることで、一般人はそこまでは知らなくても良い。

それなのになぜ、「電気」となると、「石炭火力か、原子力か、はたまた太陽光発電か」という議論に熱中する。これは、日本の政治家、官僚、そしてNHKのトリック(催眠術と言っても良い)で、そこに「税金」を注ぐチャンスを指導部が得ていることを示している。

中国が文化大革命の時に突然、毛沢東の宣伝によって国民が「製鉄方法」に興味を持ち、全国各地に小さな「人民製鉄」を作った。「鉄は国家なり」などといろいろ言えば、鉄だけがほかの工業製品にはないある意味が出てくる。日本の電気と同じだ。

電気の作り方は、鉄鋼と変わらない。外国から石炭を買って溶鉱炉で燃やせば鉄ができ、発電所で燃やせば電気を作ることができる。鉄鋼業はすそ野が広いが鉄鋼業自体の出荷額は約14兆円で、電力とほぼ同じである。

自動車も日本にとって最重要産業で、その原料となる鉄鉱石、石油は全部、輸入である。だから、政府にとってもとても大切だが、トヨタはガソリンエンジンばかりではなく、ハイブリッドも独力で開発した。出荷額は約50兆円で、海外も入れるとトヨタ自動車一社で連結売上が20兆円を超える。

これに対して電気の売り上げは約15兆円、そのうちの原発は稼働しているときに約5兆円だった。大した産業でもない。また「外国からの石炭を使う」と言っても、それは鉄鋼でも、自動車でも、プラスチック産業でも全く同じである。

それなのになぜ国民は「電気を何で作るか?」とか、「原発を動かさないと日本の経済は破壊する」などと言っているのだろうか。そして太陽光発電に膨大な税金を投入したり、買い取り制度を作って電気代をさらに上げるのに賛成するのだろうか?

これにはトリックがある。つまり国民に「どういう方法で電気を作るか」に関心を集め、「なにをすべき」という議論を巻き起こし、それが馬鹿らしいことであることに気が付かせないようにして、税金を投入し、大企業は補助金を取り、役人は天下りし、政治家は利権をむさぼっている。

電力会社は独占を守るために、「電気の作り方」に国民の関心をひきつければそれで、政治家、官僚が電力の独占に文句を言わなくなる。哀れなのは、トリックにかけられて高い電気を買い、原発で被曝し、太陽電池で踊らされている。

消費者はただ一言、「私はどうやって電気を作るかなど関心がありません。安くていつも使える電気を買います」と言えば、原発はなくなり、電力会社の独占も解消し、税金も安くなる。

錯覚とは恐ろしいものだ。

将来のために太陽電池と言うけれど、電力も鉄鋼も、自動車のみんな同じだ。それなのになぜ、エネルギーとか電気となると他の産業と違うように感じるのか、それが大きな問題だ。

(平成26年2月11日)
武田邦彦