History

* 備忘録的なページです

● 普通の歴史「横糸編」 日本が戦った相手と場所を正確に知る (2014-01-21)

中部大学・武田邦彦教授のブログより転載
情報元: http://takedanet.com/2014/01/post_9a68.html

このブログで私は「今まで対立があったもの」のうち、「意見の対立」ではなく、実は「事実の合意」が不足しているのではないかと思うものについて、「事実を共有」して、できるだけ対立を減らし、日本全体で前進する力を生み出そう」という活動をしている。

その一つが「普通の歴史」で、歴史の事実(きわめて簡単な事実)について共通の知識を得ておきたいと思う。先の戦争では日本で「侵略戦争であった」という人と「当然の戦争だ」という人がいる。最終的な考えは別にして、事実を確認しておきたい。今回は「日本は誰と戦ったのか?」である。日清戦争は少し様子が違うので、後で詳しく整理することにして、まずは日露戦争からのリストを作ってみた。

戦争の名前の次に日本が戦った軍隊(国名)、スラッシュの後にその国と戦った場所、さらに( )の中は当時の状態という順序である。

1) 日露戦争     ロシア/満州(ロシアの占領地)
2) 第一次世界大戦  ドイツ/遼東半島(ドイツの租借地)
3) 日中戦争     中国/上海(日本の租借地)
4) 大東亜戦争    イギリス/シンガポール、マレーシア、ビルマ(ともにイギリスの植民地)
フランス/インドシナ(フランスの植民地)
オランダ/インドネシア(オランダの植民地)
5) 太平洋戦争    アメリカ/ハワイ(アメリカの占領地)、フィリピン(アメリカの植民地)

このようにまとめてみると、日本は中国人以外のアジア人(自国民)と戦ったことはなく、敵は常に白人であった。そして戦った土地はもともとはアジア人のものだったが、日本が戦争した時には占領地や植民地だった。そして、日本が敗れた後、その土地で戦ったのは次の通り。

満州:   ロシアから中国が奪還
シンガポール、マレーシア、ビルマ: それぞれのアジア人がイギリス軍と戦って独立をする
インドシナ: インドシナの人がフランス軍と戦ってベトナム、ラオス、カンボジアとして独立
インドネシア: インドネシア軍がオランダ軍と戦って独立
フィリピン: 日本が敗れたことでアメリカが撤退し独立

つまり、白人に歯が立たなかったアジア人の代わりに日本人が戦い、一時的に日本軍が白人に勝ったので、日本が負けた後、自信を持ったアジア人が白人に対して第二次の独立戦争を行って、ほぼ全部、独立した。日本が最終的にアメリカを破っていたらどうなっていたかはまた別の機会に整理をしたい。

つまり、日露戦争からアジアの独立戦争の終わりまで、アジア側と白人側を分けると次のようになる(激しい戦闘を行った軍隊)。

アジア人側:日本軍(朝鮮軍、台湾軍)、ベトナム独立戦線、インドシナ独立戦線、チベット軍
白 人 側:アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍、ロシア軍、オランダ軍、中国軍

これが歴史的事実で、この結果をじっと見て、まずは日本人が先の戦争をどのように考えるのか、そこで第一回の議論をしたほうが良いと思う。また上の事実は違っているという方がおられたら、ぜひ、事実の訂正をお願いしたい。戦後の教育は日本が敗戦した時に戦争が終わっているような整理をしているが、実際にはアジア人と白人の戦いは続いていた。

その中で中国だけは、日本との戦争の後、戦後はチベット、ウィグル、満州、後に韓国(朝鮮戦争)と戦った。アジア人の中では珍しく、唯一、白人と戦わず、アジア人と戦ったのは中国人だけだった。

私たちはケンカをするために日本で暮らしているのではなく、仲良く生活したいのだから、事実の共有ぐらいはして、そのから話を始めたほうが良いと思う。

なお、日本が江戸末期に開国してから、明治維新を迎え、日清戦争に勝ってやっと植民地になることを逃れた。日清戦争では当時の中国を支配していた清国と戦って勝ったら、朝鮮と台湾をくれた。

日本は朝鮮とも台湾とも戦っていない。当時、中国の属国だった朝鮮を清国が日本にくれ、台湾は「化外地」(中国ではない土地)であったので日本にくれた。千島と樺太はロシアとの「交換条約」で日本の領土となった。

この事実の確認が終わったら、「侵略戦争」という定義と、「侵略戦争をしたら批判される国と批判されない国の区別」をしておきたいと思う。

(平成26年1月21日)
武田邦彦


● なぜ、中国だけが白人側についたのか? (2014-02-09)

中部大学・武田邦彦教授のブログより転載
情報元: http://takedanet.com/2014/02/post_7b46.html

今から100年ほど前、アジア人のほとんどが白人の植民地となり、苦しんでいた。その苦しみたるや並大抵ではなかった。たとえば、

1) アメリカの奴隷となった黒人は、アフリカで家族と平和に暮らしているとき、突如として銃を持ったアメリカの奴隷商人に拉致される。泣き叫ぶ家族と引き離され、奴隷船に乗せられる。嵐が来ると、20人ずつ鉄の鎖につないでそのまま海に捨てて溺死させる。
2) インドでは優れた若者がでると、イギリス軍がその人の両手首を切り取って活躍できないようにした。
3) インドシナ(今のベトナム、ラオス、カンボジア)に支配しているフランスから見てよからぬ若者がいると、微罪でしょっ引き、そのまま独房に入れて死ぬのを待った。

これが白人による有色人種の支配の実態だった。だから、有色人種は何とかして悲惨な状態から立ち上がろうとしていた。ところが有色人種の国で、特別な国が4つあった。エチオピア、シャム(今のタイ)、中国、そして日本だった。

●エチオピアはひどい風土病があって、白人が入るとたちまち死んだ。だから白人はエチオピアには入らなかった。
●シャム(タイ)はイギリスとフランスの植民地の間にあり、白人同士の争いを回避するために緩衝地帯として白人が残した(タイの王家の貢献もある)。
●中国は領土が大きかったので、白人が領土を要求すると、割譲しながら一応、国家の形だけを残していた。
●日本は軍備を整え、白人と対等の力をつけ、日露戦争に勝って有色人種で唯一、完全な形での独立を果たした。


日露戦争直前のアジアの地図、この地図はときどきこのブログでは示しているが、驚くべきことにはっきりとした独立国は日本だけ、シャム(タイ)や中国は薄い色で塗られている。

もし、日本人の多くが「正しい」と考えていること・・・その国はそこに住んでいる人のものであり、外部から軍事力をもって侵略することは許されない・・・とすると、ロシア、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ドイツがまず第一に非難されるべきであり、侵略戦争の担い手、そのものであったことがわかるだろう。この事実を見ない、見ようとしないのが、哀しいことではあるが現在の日本の知識人とその知識人に教えられた一般国民ということになる。

ところで、このような状態にアジア人は永久に甘んじるのだろうか? もちろんできるだけ早く力をつけ、白人を追い出さなければならなかった。でも、有望な若者が出ると両手首を切られるのだからなかなか発展できない。頼りは日本だけだった。

そんな状態の時、つまり第二次世界大戦がはじまる直前、中国(当時は中華民国)は上海にいた日本軍を攻撃した。当時、上海には100年ほど前の1842年に起こったイギリスと中国の間のアヘン戦争で敗れた中国が、「租界地」を外国に提供していた。租界地にいたのはイギリス、アメリカ、フランス、日本だったが、中華民国はドイツ人軍事顧問とチェコからの機関銃などで軍備を整え、日本だけに攻撃を仕掛けてきた。


もちろん、イギリス、フランスはもとより、この写真(アメリカ海兵隊)のように各国ともに上海に軍隊を配置していた。

中国はなぜ「大東亜共栄圏」を掲げて、植民地解放を唱える日本と共同せずに白人側についたのだろうか? これはヨーロッパで戦争がはじまり、ユダヤ人がドイツから追放されたとき、日本は18,000人のユダヤ人を上海の日本租界地に保護した。中国は終始、白人側に立っていた。

中国以外のアジア人、つまり満州人、朝鮮人、台湾人、インドシナ人、インド人、マレー人、ビルマ人、インドシナ人、フィリピン人(やや性格がおとなしくアメリカ側の人もいた)はすべて独立のために白人と激しい戦争をするが、中国だけはもともと白人側についたので、日本がアメリカとロシアに敗れるとそのまま独立を確保した。

中国人は人種的にはアジア人であるが、「中華思想」があり、清(中国の最後の王朝)の時代までアジア諸国を属国としていたので、属国と協力する考えがなかったように見える。そして白人が中国領土を求めると戦わずして割譲した(満州をロシアに、遼東半島をドイツに、香港から揚子江をイギリスに、南部をフランスに)のに、日本がドイツに代わって遼東半島を、上海租界地にいることだけは我慢が出来なかったというのが事実だった。

この問題はこの記事が最初の整理であり、さらに深めていきたい。

(平成26年2月9日)
武田邦彦


● 普通の歴史「横糸編」 日中問題か、日日問題か? (2014-01-14)

中部大学・武田邦彦教授のブログより転載
情報元: http://takedanet.com/2014/01/post_679e.html

日本と中国の問題のうち、第二次上海事変からの日中戦争や大東亜戦争の問題は、日本と中国の間のことなので「日中問題」と言えば言えるが、その本質はそうではないと思われる。

たとえば、「南京虐殺」という日中問題は、もともと戦争は1937年暮れから38年初頭にあり、それ以後、日中間で問題になることはなかった。しかし、1981年に朝日新聞出版がだした本多勝一の著書が創造したものだ。それを読んだ日本人が「南京で虐殺があった」と思ったことによって、始まった事件だから、日中問題というより、日本の中の反日日本人の問題、つまり日日問題である。

この「本多捏造事件」と呼ぶべき犯罪がなかなか打ち消されないのは、

1) 世界で自分の国が非難されることを積極的に言う人はほとんどいない、
2) 特に世界で自分の国が非難されることをねつ造していう人はいない、
3) 世界で自分の国が非難されることを、良く調べないで宣伝する国民はいない、

という現実があるからだ。


1937年、中華民国軍が上海に国際条約に基づいて駐屯していた日本軍を攻撃し、第二次上海事変が起こった。戦火は拡大し、敗走する中国軍を追って日本軍が上海の近くの首都南京まで進軍し、南京を攻略したのが南京事変である。

もともと、国際条約を破って日本軍を攻撃してきたのは中国軍であり、日本軍が南京を攻撃する前に南京にいた中国一般人の人口が20万人、戦後の調査で同じ20万人だから、南京虐殺は事実ではないのは明確である。

ところが戦争が終わって36年たった時に、朝日新聞の記者の本多という男が上海に2泊3日して中国人3人にあい、その体の傷と「日本軍が中国人を殺した」という伝聞をもとにねつ造したのが「南京虐殺」である。

だから本当は問題にならないのだが、上の3つの世界常識があるから、瞬く間に世界に広がった。サッカーの国際試合でもなんでも、自分の国を応援するのが普通で、自分の国が負けて喜ぶ人というのは滅多にいない。よほど心がねじれている人に決まっている。

というか、言われた方がキョトンとしてしまうだろう。女子ソフトボールで、日本とアメリカが金メダルをかけてオリンピックで戦って日本が負けたら「こんなうれしいことはない」と日本人が言ったとすると、それを聞いたアメリカ人は「なにか策略があるのかな?」とむしろ警戒するだろう。

本多記者の一連の活動を見ると、日本人なのに日本に深い恨みがあり、それを朝日新聞が話題性が強いので、戦後の「反日ブーム」の先兵として利用したということと考えられる。戦前、野球を日本に導入した早稲田大学と慶応大学を「つぶすぞ」と脅し、アメリカとの戦争に反対した新渡戸稲造に「自決しろ」と促したのは朝日新聞だった。それが戦後、アメリカに占領されると高校野球を主催し、アメリカとの連携を支持した。それが朝日新聞だ。

でも、日本が負った傷は深かった。それはこの本多捏造事件に日本の知識人が応じて日本バッシングを始めたからである。当時、日本は左右の思想対立が残っていたので、やや不利に立っていた知識人が自らの名誉挽回のために「日本人でありながら、架空の事件を作って日本を批判する」ということを大々的に始めた。

これでは中国はもちろん、諸外国もねつ造かもしれないと思っても、それに乗るだろう。「日本が侵略戦争をした」とか「戦争犯罪があった」などというのも同じで、日本人が日本を貶めるために作った話だが、それも外国から見ると信じられないと思う。

日本の国会は戦後、「戦争犯罪はなかった」ということでいわゆる戦犯を釈放することにし、それに社会党、共産党も同意して全会一致で決議した。もちろん日本は民主主義であり、国民の代表が国会だからそこで全会一致で決議していることを、後に日本人自身が覆すというのは実に奇妙なことである。

このようなことを考えると、まずは日本国内で本多事件はどうだったのか、日本は誰と戦ったのか、日本の中になぜこれほど強い「反日感情」を持つ日本人が多いのかを議論しなければならないだろう。

私のブログは「日本国民の意思の統一のためには」、「事実を共有し」、「誠実に自分の意見を開陳し」、「日本の子供たちのためにベストな方法を合意する」ということに尽きる。

(平成26年1月14日)
武田邦彦